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SPECIAL

6/8(土)に「人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか」の著者・伊藤健太郎先生をお迎えして、シネマート心斎橋、イオンシネマ京都桂川、伏見ミリオン座の3館でトークイベント付き上映会が開催されました。
すべての上映館で満席、立ち見となる大盛況のうちにイベントは幕をおろしました。大人気のイベントでしたので、参加できなかった方もきっと多かったことでしょう。そんなあなたのために、シネマート心斎橋で行われたイベントの模様をここでお届けしたいと思います!満席に埋まった観客の大きな拍手に迎えられ、伊藤先生がにこやかに登壇されました。

伊藤:
今日、映画をご覧になった方の中には、日本に『歎異抄』という古典があることを、初めて知った人もあると思います。
そこで『歎異抄』という本が、なぜ多くの人を引きつけるのか、映画の内容も振り返りながら、しばらくお話し致します。

ご挨拶の後は『歎異抄』で最も有名な「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉を取り上げ、『歎異抄』の魅力についてまずお話しされました。

伊藤:
『歎異抄』といえば、まっさきに思い浮かぶのが、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉です。「善人でさえ救われるのだから、ましてや悪人は、なおさらだ」と、親鸞聖人は仰っています。善人より悪人が救われるというのは、私たちの常識では、考えられないことです。映画の中で、権八が人を殺して、縄を掛けられて、役人に引っ張り出されているのを見た野次馬達は、口々に、「人殺し!」「極悪人!」「殺せ!」「死ね、悪党!」と言っていました。今日で言うなら、小学生を次々、刃物で襲った人殺しがつかまったら、やはり一斉に、「人殺し!」「極悪人!」「殺せ!」「死ね、悪党!」と言うと思います。そういう犯人が自殺をしますと、テレビのコメンテーターまでが「社会に不満があるなら1人で死ね」と感情を爆発させて言います。それに対して、「いや、一人で死ねというのは、言いすぎじゃないですか」と言おうものなら、また、それに対して「凶悪犯罪を認めるのか!」「綺麗ごと言うな!」と、またまた非難ごうごうです。だから、私が「いや、悪人こそ、まっさきに救われるのです」などと言ったら、袋だたきになるでしょう。
ですが、『歎異抄』に「悪人こそ救われる」と書かれているのは、親鸞聖人の言葉です。親鸞聖人が、デタラメなことを仰るはずがありません。それで、いったい「悪人こそ救われる」とは、どんな意味なのだろうと、『歎異抄』に引きつけられる人が、多くなります。

現在のニュースを例えに挙げられた説明はとても分かりやすく、観客の方々は一様に頷きながら先生のお話に聞き入っていました。次に大きな疑問の根源となる「善人」と「悪人」についての解説が続きます。

伊藤:
親鸞聖人が「悪人こそ救われる」と仰った「悪人」とは、人殺しや詐欺師や泥棒だけのことでは無く、実は全ての人が、あの権八と同じ悪人なのだよ、と仰っています。すべての人が悪人だということは、この世には善人は、一人もいないのでしょうか。親鸞聖人は世の中には、自分は善人だと自惚れている人がいて、そういう人を「善人」と仰っています。

映画本編の中でも何回も「すべての人は悪人だ」というセリフで出てきましたね。これはとても重要なポイントです。自分は善人だと自惚れている人のことを仮に「善人」だと親鸞聖人は位置付けていらっしゃいました。この善人の定義について伊藤先生は心理学の面からこのように解説してくださいました。

伊藤:
人間が、いかに自惚れ強いかということは、心理学でも証明されていまして、これを「平均以上効果」といわれています。あなたは、車の運転が上手ですか?それとも下手ですか?と聞くと、上手では無いけど平均よりは上だと答えます。あなたはクラスの中で人気者ですか?それとも嫌われ者ですか?と聞くと、人気者では無いけど半分以上の人からは良い人だと言われているよと答えます。このように上中下で分けると中の上だとほとんどの人が答えるんですね。ですから、あなたは善人ですか?悪人ですか?と聞きますと、善人というにはおこがましいけれど、私より悪い人間はいっぱいいるから善人の方だと思いますよと、ほとんどの人が自分は善人の方に入ると思っています。ですから親鸞聖人から全ての人は悪人だと言われても到底受け入れることはできません。この映画を1回や2回見ただけでは納得できません。ですから最低でも137回見て頂かないと分からないようになっています。

真剣に聞き入っていた会場でしたが先生の冗談で爆笑の渦に!
そして、そんなには見れないよ!という方に向けて「心の悪」について続けてお話をされました。

伊藤:
法律では、人を殺したり、お金を騙し取ったり、物を盗んだりした人を罰しますが、心で、どんな恐ろしいことを思っていても、それで逮捕されるということはありません。ですが仏教では、体で殺すよりももっと恐ろしいのは心で恐ろしいことを思う罪だと教えられています。それは、映画の中でも言われていましたように、私たちの体を動かすのは「心」だからです。皆さんが今日、映画館に来られたのは、皆さんの「心」が、「映画館に行こう」と思われたからです。「今日はユニバーサルスタジオに行こう」と思われてたら、ユニバーサルスタジオにおられたと思います。「心」はユニバーサルスタジオに行こうと思っていたのに、足だけ勝手に映画館に来ていたというような器用な人はいません。ですから体で悪いことをしたとしたら、一番責任が重いのはその体を動かした心なのだよと教えられています。

確かに先生のおっしゃる通りですよね!会場も先生のこの例えには苦笑しつつも皆さん納得された様子でした。さらに先生はご自身の体験談をもとに、より具体的に「心の悪」について説明されました。

伊藤:
これは、私の学生時代のことですが、社会人の女性が、高級な「鍋料理」の店に連れて行ってくれたことがあります。テーブルの真ん中に、ぐつぐつ煮えた鍋があって、その周りに、たくさんの食材が並んでいたのですが、その中の一つのお椀が、「カチャン」と音を立てました。最初は、フタがずれて音がしたのかと思いましたが、よく見ると生きたエビが入っていました。「いくらなんでも、これは食べられないな」と思って、他の肉や野菜を食べていたのですが、私が、いつまでもエビを食べないので、その女性が、エビを鍋に入れて、ゆであがってから私の皿に入れてくれました。
その時に「いやぁ、この人はこんな残酷なことができるのか」と驚くと同時に、人にそんな残酷なことをさせて、さも自分は善人であるかのように見せかけている私こそが日本一の最低男だな、と思いました。体で殺すことも残酷ですが、それよりももっと残酷で汚いのは、それをやらせた私の心です。ですから仏教では、体で殺す罪よりも、心で殺す罪の方がもっと恐ろしいのだと教えられています。映画の中で親鸞聖人は「心の中で『あいつはキライ、死んでくれたら』と思った瞬間に、権八と同じように相手を殺しているのだ。腹が立てば親でも子でも心で殺す。心で殺さない者など一人もいないのだ」と仰っていました。自分の心を見つめてそれでも自分は善人の方に入るのかと考えて頂きたいと思います。

仏教を知らない人にとってこの「心の悪」という考え方はとてもセンセーショナルな視点だと思います。先生の少し微笑ましい例え話に会場も和やかなムードでお話を聞いていらっしゃいましたが、最後の方では皆さん非常に納得した厳しい顔つきになっていました。そんな空気を払拭するかのように、伊藤先生からは実にユニークなワンポイントアドバイスが飛び出しました!

伊藤:
最近は恐ろしい事件が続いていますので、腹が立った時どうやって怒りをコントロールするのかということについてお話をしたいと思います。時々生活の中で腹が立ったり、イライラしたりすることがあると思いますけど、どうして腹がたつのでしょうか。それは自分は善人だと思っているからです。私は善人だから悪いことはしていない、良いことばかりしている。だから自分は幸せになれると思い込んでいます。だから事故にあったり思わぬ病気になったりすると「なんで私が、こんな目に遭わなければならないんだ。私は幸せになれるはずなのにこんな不幸になるはずが無い」と、腹が立ちます。ですからもしカーッとなることがあったら、心の中で6回、『歎異抄』、『歎異抄』、『歎異抄』と繰り返して下さい。そうやって繰り返しているうちに「あぁ…そういえば『歎異抄』ではすべての人間は悪人だと教えられていたぁ…権八も親鸞聖人も私も全ての人は極悪人なんだと教えられていたなぁ」と思い出すとだんだん落ち着いて来ます。

なるほど!すごい説得力のある先生からのワンポイントアドバイス!会場中から大きな笑いがこぼれましたが、皆さんの表情からは納得された様子が見て取れました。会場はまだまだ先生のお話を伺いたいというムードでしたが、楽しい時間はあっという間に過ぎ、先生からは最後のご挨拶が。

伊藤:
私たちの怒りというのは、どんなにカーッと最高潮に燃え上がっても6秒間しか続きません。ところがカーッと腹を立てた瞬間に、1秒か2秒で行動に移すと本当に相手を殺してしまうかもしれません。だから、ことある毎に、『歎異抄』を思い出して欲しいと思います。もし皆さんの周りでイライラしたり腹を立ててる人がいましたら、是非「歎異抄をひらく」を観に行こうと誘って頂きたいと思います。

先生のご挨拶と共に会場は割れんばかりの大きな拍手が巻き起こり、トークイベントは終演しました。いかがでしたか?先生ご自身の体験談や現在のニュースなども織り交ぜながらの解説は、とても身近に感じられて分かりやすかったですよね。時代がどんなに経過しても変わらない、普遍的なテーマを親鸞聖人はすでに看破されていたのだなと私自身も痛感しました。
『歎異抄』が現代でも読み継がれている理由が分かったような気がしますね!

伊藤先生のトーク付き鑑賞イベントは今後も実施予定ですので、是非今後の情報もお見逃しなく!